6月

5月からずっと仕事に追われていて、なんだか日々が落ち着かない。

ひとつひとつ考えたいこともどんどん流されていくような感覚があって、たぶんそういうときこそ毎日日記を書くといいのだろうけれど、私は疲れていると床で寝てしまうくらいズボラな人間なので、そうきっちりもできない。

 

私が打ち込んでいる仕事に対してもずっと違和感を覚え続けたまま数年が過ぎてしまい、自分の年齢に焦ったりしてしまう。いわゆるマネジメント的な業務をしているんだけれど、自分の存在価値はそんなにないとずっと思い続けていて(悲観や自虐ではなくて純粋にそう思ってしまう)なんだか気持ちが悪い。会社員は代替可能なものだと思うから、これはこれできっと誰かに役には立っているはずと言い聞かせているけれど、このまま何も持たない人になって老いていくことへの恐怖や焦りは背中合わせで存在している。

今後もたぶんデザインというものから遠ざかることはない気がしていて、たとえこの先まったく違う職種についたとしても、日々起こる物事に対して問題点を見出して、それを解決していくというプロセスは、何も図案の話だけじゃないと確信しているし、生涯繰り返していく思考なんだろうなと思う。そういう意味では曲がりなりにもデザインをやってきてよかったなと思えるし、これから先も、自分が迷った時にはそうやって考えながら生きていきたい。

 

2019年はそういえばあらゆる分断を感じてつらいなと思うことが多かったけど、2020年は分断を感じるどころか、いよいよ分けて断たれている感が日に日に強くなっているように感じる。George Floyd氏の死から起こった抗議運動、そして暴動についてのニュースが数日前から流れていて、昨日今日あたりからは、日本でもたくさんの抗議の声が挙がっているように感じる。企業はロゴを黒くしたり、iTunesはブラックコミュニティを支持するプレイリストを提供したり、身近な友人たちもハッシュタグに参加したりしていた。私も声を挙げたいと思ったので参加したけれど、やっぱりどうしてもきちんと文脈や背景を追いきれないことに不甲斐なさを感じる。特に私は英語がわからないから、現地で何が起きているかや、誰がどういう声を表明しているかなど、自分で追うのはなかなか困難なのである。前のポストでも書いたように、検察庁のときも似たようなことを思った。

どうも私は自分が納得いくまで調べ上げたくなってしまう性分のようで、そのどこから得たのかわからない謎のジャーナリズム精神を、与えられる情報すべてにつぎ込んでいたら生活がままならないので、意識的に自分のくらしにフォーカスすることも必要だなと感じたりした。

 

友人の同性カップルが同棲(言葉遊びっぽい)しようとしてやんわりと断られた話も自分に少なからずダメージを与えている。私もそういう未来を想像しないわけではないし、実際話に持ち上がったりもするわけで、もし自分がそういう態度を取られた場合に、どう切り返すんだろうと思ったりした。今ならたぶん怒るなと思ったけど、数年前だったらですよねえと笑って立ち去って、他の物件を探しただろうと思う。

なぜ今怒れるなと思ったかというと、たぶん世間の声が大きくなっているからに他ならないと思う。これはダサい話ではある。自分が正しいと思っていることを、世間の空気を見ながら態度を変えるわけだから。ダサいと思うけど、それは処世術だし、そうやって生きていくしかなかった時期もあったと思うし、そういう人はきっと今もたくさんいる。

自分が正しいと思うものを主張するときの後ろ盾となるものは、社会の空気に左右されやすくて、というよりもはや社会の空気そのものですらあると思う。そういう意味で、声を挙げられる社会はとてもいいことだなと思う。変わっていく兆しだし、希望だから。

 

そう思っていた矢先に、僕の好きな歌手のファンクラブ会員限定の文章には少し違和感を覚えつつ、考えさせられるものがあった。要約すると、政権に対する反発などにおいて、私は違うと思ったら怒り立てずになるべくその分野に近い人に直接静かにお話するようにしている、という話で、確かにそれは一理あるなとも思う。

特に攻撃的になりすぎている人に対しては、解決する気あります?と私も思うので、正しいと思う。ただ、前述したように、声を上げないと気付いてもらえない人たちの声はどうするんだとか、冷静でいられないくらいひどい仕打ちをうけている人に同じことが言えるのかとか、あなたはそういう立場の人に直接ものを申せる力や立場を持っているからだよなとか、そういうことが頭の中をぐるぐるしてしまった。

 

誹謗中傷が話題にもなっていたけど、ただただ誰かのことを死ねとかやめろとか蔑むのは私も見ていて気持ちいいものじゃないし、何より問題や論点がわからなくてお話のしようがない。ただ、こと政治において、特に人権や自己の尊厳に関わることについて、あまりに理不尽な仕打ちを受けた時に、私は強めの言葉で罵ることがないとも言い切れない。人の言動の裏には必ず背景があると思うから、それに心を寄せたいと思った。